鶏を飼って考えた命とごはんの話

 

新年明けましたね。

年末の忙しさに忙殺され、新年明けたと同時に酒の海に溺れ、1.2月を週末だけの営業にしたりとバタバタとしておりましたが、そういえば私、年末に鶏を飼い始めまして。

友人のミカン農家さんに手伝ってもらって立派な小屋を建てて25羽の雛(生後数日)を迎えたんです。

残念な事に数々の災難に襲われ(ごめんね)雛はだんだんと数を減らし10羽の精鋭が残るのみとなりましたがすくすくと成長し立派になりました。

 

オスはデザート迷彩まで装備してこの凛々しい顔。かっこいい。かわいい。愛着が湧きますね。

 

メスちゃんも4月には卵を産んでくれるでしょうか。すげー楽しみ。

 

で、ここで問題なのがコイツらが卵を産まなくなったら肉として食べることが出来るのかって話。

どこかでやってるって聞いたことがありますが、鶏を締めて食べる系のワークショップ。所謂食育的なあれです。
いや、あれは凄くいいと思う。
命を頂くって目の当たりにすると僕は残さず食べなきゃ!って思うから。

良いと思うんだけど、なんだろうこのちょっとした違和感。

こうして命を頂いてるんだよ!って人に教える事で「良いことをしてる」みたいに思っちゃう。

でも、ちょっと前の世代の地方出身の方って鶏肉嫌いな方結構いらっしゃるじゃないですか。理由を聞くと、

「昔締めてたの見て食べれなくなった」

って方が結構いらしてて。でも多分その人が悪いのでは無くてやっぱり目の当たりにするとショックなんですよね。僕らは当たり前の様に肉が手に入る状況にいますが、一般の人はそうじゃない。

僕はサイコパスなんで(おい)締めた直後でも美味い美味いって骨までバリバリ食べますが多数の方はそうはいかない。中には泣いちゃう人もいるわけです。

で、立ち返ったんですが僕は、

 

 

[食材を美味しく食べてもらう]

ってのが仕事なわけで、食材になるまでのプロセス(締め)を教える事によって食べ手に抵抗を植え付けちゃうと美味しく食べてもらえないわけで、それって締めた鶏も可哀想なんじゃないかと。

 

 

食べ物の有り難さって?

当たり前の様に食材が並んで、当たり前の様に食べられる環境だったり、みんながしたくない動物を締めて加工して食卓に並べれる様にしてくれてる人達がいてくれる事だったり、命のやり取りの現場を知らなくてもいいから、それが生きていた物だと知ってもらえたらそれでいい。

後は皆んなで笑顔で頂きます!言って、食卓を囲んで残さず食べる事が一番の食育で携わる方々に対する一番の感謝なんじゃないかと。

 


えらそーな事を言いました。

 

 

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表原平(Tira Omotehara) twitter  Instagram
1989年7月に徳島県徳島市(厳密には小松島の日赤病院)に生まれ。小中高と野球漬けの日々。21歳の時に料理人を志し、上京。東京で数店舗、その後淡路島野島スコーラを経て、2014年の12月に上勝町でペルトナーレをオープン。29歳。[/su_column][/su_row]

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所在地/徳島県勝浦郡上勝町福原字平間62番地
営業時間/ランチ  12:00~15:00(L.O14:00)
ディナー 完全予約制(前日までの予約)
定休日/月曜日 電話/080-3165-7153
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