【寄稿】「消費される仕事と、そうでない仕事」を考えてみた。前編 -ライター 甲斐かおり-
上勝クラシカル読者のみなさま、こんばんは。東です。
今週はゲスト回としてライターの甲斐かおりさんによる寄稿記事を
今日と明日、2日連続掲載でお届けします。
先日、上勝に来てくださった甲斐さん。
いろんなお話をする中で出た話題のひとつ「消費する・される」について
帰ってからもいろいろと考えを巡らせてくださったようです。
このトピックは今私が一番整理したいと思っている内容でもあります。
なのでプロのライターさんが様々な視点で書いてくださった今回の記事は読み応えがあり、必読です!!
それでは前半、まずは上勝と甲斐さんとの出会いからスタートです。
1 上勝との出会い

初めて上勝を訪れたのは、一年前(2019年4月)のことだ。ちょうど桜の季節で、霧がかった山の濃い緑に淡いピンクがぽつぽつと浮かび上がる様子は本当に美しかった。
カフェ・ポールスターの東輝実さんに初めて会ったのは、それよりさらに半年前。福井のイベントに彼女が出店していて阿波晩茶を販売していた。お茶の話もそうだけど、上勝のことを熱心に話す彼女の姿が妙に印象に残り、また会いたいなと思ったし、その町へ行ってみたいと思った。
それから機会を得て取材で訪れた時も、輝実さんは上勝の話ばかりしていた。ゼロ・ウェイストの話、このカフェを始めた経緯を聞いて、町のもつ大きな物語に惹かれたし、天命かと思うような輝実さんの人生やポールスターの“まちの拠点”としての役割も知った。

なのでその後、私が『ほどよい量をつくる』という本を出した時、本を置いてもらえたらと真っ先に思い浮かんだのがカフェ・ポールスターだった。国内のSDGsの象徴のような上勝町の、拠点である場所。ポールスターを訪れる人たちに、この本を手にしてもらえたらという勝手な願いを込めて本を送った。すると『上勝100年会議』に来て話をしてほしいという、この上なく嬉しい返事をもらったのだった。

2020年3月4日に開催した「上勝100年会議」の様子。

著書『ほどよい量をつくる』 (Photo by Shinya Kobayashi)
3月上旬に行われた100年会議は、コロナのために参加者の半分以上はオンライン参加となり、皆さんに直接会えなかったのは残念だったけれど、何とか無事に会を行えたのは本当に嬉しいことだった。しかもシーラカンス食堂の小林新也さんがその日偶然にも上勝町に居合わせて、飛び入り参加してくれるという嬉しい出来事も重なって、貴重な時間になった。その晩は、KINOFの杉山久美さんやペルトナーレの表原さんも交えて夜遅くまで話し込んだ。宝物のような時間だった。

2 消費されるってどういうことだろう?
その翌朝。見晴らしのいい喫茶店で輝実さんとご主人の松本さんと朝食を摂っていたときのことだ。輝実さんはこんな話をした。
「去年からインターン(でよかった?言い方要確認)を受け入れているんですけど、これがとてもよくて。食事と泊まるところを提供して、ボランティアで手伝ってもらうんです。お店を手伝ってくれる子もいれば、子どもの面倒見てくれる人もいるし、絵が得意な人には看板を描いてもらったり。もっと稼げるようになって事業として成功させなきゃって思いもあったんだけど、お金を介さない方が気持ちがいい。お金が絡まなければありがとうって感謝の気持ちから出発できるのに、お金が介在したとたんにサービスになっちゃって相手もお客さんになってしまう。そしたらこっちも消費されちゃう気がして。消費したりされたりする関係じゃないところで生きていきたいなって思ったりするんです」
「それはすごくお金に困ったことがないから言えることかもしれない」ってご主人の松本さんの冷静な一言もあってほどなく話は終わったのだけれど、私にはこの問いがとても気になった。思ったのだ。消費する、されるって何だろう。どこまでが「消費される」で、どこからはそうじゃないんだろう、と。

3 消費じゃないものが「消費」に変わるとき
輝実さんの言いたいことも、よくわかった。
資本主義のシステムの中では、値段がつけばあらゆるものが「商品」や「サービス」になり、本来交換できないようなものまで、交換可能な対象になってしまう。贈与経済の文脈でよく言われることでもある。
マイケル・サンデルの『それをお金で買いますか』にはこんな話がある。ある保育所で、親が子どもを迎えに来る時間が遅れるという問題が慢性化していた。これを解決するために、保育所は遅れた人から罰金を取ることにしたのだけど、かえって遅刻が増えたというのである。値段がついたことで、保育士が子どもと一緒に待っていることが「サービス」化されたのだ。自主的に子どもと居残ってくれていた保育士に対して「悪い」と思う罪悪感や感謝の気持ちが薄れたともいえる。こんな風に、値段をつけることで「贈与」を「消費」できるものにした例は、ほかにもたくさんある。
自分も仕事をしているなかで、相手を「消費している」と感じたことがある。それはこちらの(例えば媒体の)勝手な都合で、取材相手を「利用しているのでは」と感じたとき。自分自身が「消費されている」と感じたこともある。やはり仕事相手に自分が「利用されている」と感じた時だ。どちらもものすごく深い嫌悪と徒労感があって、できるだけそういう仕事の仕方はしたくないと肝に銘じてきた。
でも、自分のしているお金の介在するすべての仕事で、「消費している、されている」という感覚を感じているかというとそうではない。
4 「消費する、される」の条件を考えてみた
デジタル大辞泉(小学館)によれば、「消費」とは「使ってなくすこと」に加えて「人が欲望を満たすために、財貨・サービスを使うこと」とある。
どこまでが消費で、どこからそうでないか?を考えるために、わかりやすい仕事を挙げてみる。
たとえば、ある食堂の店主が、安くてうまい食事を提供してお客さんに愛される店にしたいと心から願っているとする。お客さんが喜んで食べてくれて、それを店主も日々実感できるとしたら、どんなに仕事が大変でも、それほど儲からなくても、自分が「消費されている」とは思わないのではないか。でも、お客さんが店主の気持ちを顧みず、無礼にふるまったり「自分自身の欲望を満たすだけのために店を利用している」としか思えない行動をとれば、たちまち「消費されている」と感じるかもしれない。
一方で、店主が雇われ店主だったとして、オーナーが別にいて、店主は稼ぐために出したくもないメニューを提供し、採算ばかり重視する店をやっていたら、店主が「消費されている」と感じ、客を「消費している」と感じる度合いも大きいのではないだろうか。
そう言うと「消費」そのものがネガティブに聞こえるが、消費行為すべてが悪かと言えば、けしてそんなことはない。石鹸やお茶など私たちは確実に日々消費しているものがあって、それはそれで生活に必要だ。電車に乗ること、音楽や本を買うことなど、お金が介在するからこそ享受できるものもたくさんある。
ただ、“モノ”を消費することと、“人”を消費することは違う。消費していいものとそうでないものがある、という話ではないか。
人が消費する、されると感じる時、そこにはいくつかの条件があるように思う。
一つは時間や数など、労働力に対して無理が生じているとき。仕事が「こなし」仕事になると、仕事は作業になり、やりがいや思い、責任感がそがれる。
次に、サービスの提供者かお客さんのどちらかが一方的に「利用」しているとき。利用のバランスが取れているうちはウィンウィンでも、バランスが崩れて、どちらかが自分の側だけの利益を優先して、相手を幸せにしていない場合はそうなる。
三つ目に、サービスを提供する側と受け取る側が、そのサービスの価値を理解し合えない時。ただの消費活動ではそうした曖昧な価値観は求められないが、消費しない、されない仕事においては、常に両者の間で、相手を尊重することや感謝の気持ちが失われない状態が前提にある気がする。

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明日の後編「「消費する、される」は「お金」が介在するかどうかではない」へ続く。



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