このわたし、腐りきる前にて。

どうもみなさまお元気ですか。東です。

先週、夫が書いた「もやもや」記事がいろんな方に読んでいただいているようで、上勝クラシカルでは投稿率が一番低いのに話題をさらっていくなんて、ズルいやつです。もやもや(笑

さて、そんな もやもや に触発されてか、今日は私のもやもやを吐露してみようと思います。定期的にやってくるやつですね。これまでも、もやもや書いてます(苦笑
さぁ、どこまでいけるかな。今日はすみません、自分との戦いを繰り広げるだけになりそうです。

腐ってんな、わたし。

恥ずかしい話なんですけど、最近私ね、腐ってるんですよ。

自分では腐らないように、衰えないようにできる限りのことをしようと試みてきたつもりだったんです。大丈夫さ、自分が意識を高く持てば自分は腐らない、と思っていた。

カフェを始めた当初、周りには「自分の城を持ったね。」と言われました。母親の影響を強く受けて始めたこともあり、最初のうちは「自分の城」なんて感覚はなくて、むしろどうやったら「自分のものらしくできるか」を探っていたと思います。自分が本当にカフェをやりたいのかみたいな疑問も持つ暇もなく、物理的に場所を構えることになりました。…なんて書き方をしたらえらくネガティブで、この後に続くのは「実はやりたくないってことに気づきました。」みたいな文章になっちゃいそうですが、いや、全くそんなことなくて、やはりカフェという場所が居場所のように感じるし、一番心が落ち着く場所です。

夜の、落ち着いた空間のカフェ・ポールスターが好きです。

しかしながら、一箇所に止まることにもなったわけで、例えばですけど海外に留学したいと思っても、そう簡単に動ける状況ではなくなってしまいました。上勝にいながらでも英語は学べるはずだと思って、そんな時にちょうどタイミングも重なってカナダ人のリンダちゃんと一緒に家をシェアし始めたのが2019年。考え方、価値観の違いを感じて視野が広がったと思うし、毎日英語で会話をするわけですから、全くもってダメだった私の英語もどうにかなり始め、海外の人を見ても怖気付かないくらいにはなりました。


2019年。リンダをきっかけに、うちの家にはこれまで10人くらいの一時滞在者がドイツ、フランス、アイルランドなどからやってきました。

田舎に、上勝にいながらも腐りたくないとどこかで思っていたんでしょうね。
今の時代、どこに居るかはあまり関係なくて、求めればネット上には学べる機会なんていくらでもあります。そういう所は、本当に良くなったと感じるんですけど、やっぱり何か物足りないと感じてしまうのは何故か。何かがここには、ない。

「ここにはない何か。」の答えを見つけるのは少し後にして、カフェをやってきて「どうやったら自分のものらしくできるかを探っていた」と書きましたが、カフェをやって8年、自分には積み上げてきたという感覚がない。むしろ感じるのは虚無感。
何を私はやってきただんだろうかって。

そんなことを今年の最初の方からずっと思ってたんですけど、先日ゼロ・ウェイストセンターで働くももなちゃんに借りた「三浦編集室」というフリーペーパーに「発酵」号というのがありまして、その中に少し気になるフレーズがありました。


このフリーペーパーは石見銀山大森町の暮らしを伝えるローカルフリーペーパーというタイトルで、群言堂さんが発行しているものです。

このフリーペーパーを作っている株式会社石見銀山生活文化研究所の「三浦編集室」編集長こと三浦類さんは、発酵号を予定していた5ヶ月遅れで発行することとなったことについてこう書いています。
「(中略)原因を突き詰めれば三浦の怠惰、甘え、メンタルの弱さに集約されるだろう。食べ物はじっくりと発酵すれば旨みや甘味が増す。しかしもはや三浦の内面は発酵ではなく腐敗している可能性が高い。発酵と腐敗は紙一重だというが、こんな腐りかけではもう三浦変臭長だ。そんなのは御免だ。」

なんとも楽しい文章ですよね。私はこれを読んだ時に、私が感じた8年の実感のなさは、発酵してきたのではなく、腐敗しているからだと感じたのです。ではなぜ腐敗が起こっているのか。しかも、自分が気付かぬ間に、起こってきたのか。

「呪い」にかかる。

少し敏感に自分の周りの言葉なんかを拾い始めると、いわゆる自分の「マイブーム」的なものが起こり始めるわけです。
心が届く範囲内の人が同じような言葉を使い、同じようなものをすすめられると、あらやだ、運命なんじゃないかと思っちゃうわけです。
そんな私の今の「マイブームワード」が「呪い」です。(やばいな。)

本を読んだり友人と話したりオンラインの記事を読んでいても、この「呪い」という言葉が最近出てきます。
で、なんで呪いの話をしたかというと、腐敗が進んだのは、この呪いも関係しているんではないかと思うからです。

「カフェを続けなくてはならない。」
「上勝を持続可能な町にしなくてはいけない。」

私は、自分でやりたいことをやってきたと思っています。がしかし、「こうせな、あかんのよ」という思い込みも大きかったと今では感じることができるようになりました。この「せなあかん。」は母の口癖でもありました。これが、呪いです。笑
決して母を悪く言いたいわけでなく、母という存在が大きかったからこそ、そう信じていたし、自分で疑うという作業をしてこなかったのだと。

以前、この上勝クラシカルに寄稿してくださった甲斐かおりさんがお薦めしてくださった近内悠太さんの「世界は贈与でできている」という本の中には「呪いとは、思考と行動の可動域に制約をかけるもの」とありますが、こういった呪いにかかることで「自分が止まり」、それが腐敗へと進んでいくのではないかー。

私は自ら自分の可動域を狭めていないつもりだったけれど、根本のところで思考停止していたのではないか。
「せなあかん。」は使命感。そして原動力でもあった私たち(私と、きっと母も)にとっては驚きです。

腐りきる前に。

で、最後に「ここにはない何か」の正体ですが、これはきっと「仲間」みたいなものだと思うんですね。
上勝は人口が少ないながらも、多種多様な人がいるんですが、もっと増やしていきたい。人口を増やすのもそうかもしれませんが、思考と行動の可動域を広げてくれる仲間、乱暴な言い方をすると「ぶち壊してくれる」仲間を持たないと、結局呪いの先にいけない気がしています。

「上勝」という地域のくくりではなくとも、このもやもやとか意見を交換できる「域」を作りたいなぁと思うんです。住んでる所はみんな違うけれど、私みたいに思考も行動も狭まってしまう前に、その領域から引きずり出してくれる、もしくは一緒に「発酵」へと進めてくれる仲間の域。

昨晩は私のこの腐り具合をプーンと匂わせながら、今は数少ない私の思考をいつもぶち壊してくれる貴重な仲間、某シェフと話していて「消費されてきた人の末路を見てるみたい。」と言われました(笑 悲しいかな、その通りなのではないかと思ってしまいました。このまま腐ると、肥やしにもならんぞ私。

そんなこんなで、仲間募集中です(笑

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コメント1件

  • わっつあっぷファーム より:

    今日、種を蒔いていて『この小さな種がブロッコリーになるのかぁ〜他のアブラナ科も似たようなものなのに、これは育ったらブロッコリーになるようになってるのかぁ〜すごいなぁ』とふと、その小さな種に惹きつけられてました。それと同時に『もし自分が種をデザインして作れたらどんなの作るかな〜ジャックと豆の木に出てくるような空まで行けるようなやつで家作って〜とか根っこがコンクリに張り付いてくれるトマトとか』なんて事を妄想してると『そんなの出来る訳ないじゃん』とどこからともなく。一瞬そうだよな、何考えてんだよと。いや、でもまてよ、これは今、出来るかどうかが大切なんじゃなくて自由に想像出来るかどうかの方が大切なんじゃないかって思い直し少し楽しくなりました。

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